北遠と呼ばれる、北部遠州地方には不思議な縁があった。1977年に天竜二俣を初めて自転車で訪れたのがその契機で、79年には三泊四日の旅で通過して、ますますその豪放とした天竜川の谷間の虜となった。だから自転車旅の休止期間にも、車でけっこう訪れてはいた。
93年に自転車旅を再開したとき、最初に訪れたのはそれこそ北遠州と南信州、すなわち北遠と南信を境目を成す領域で、「ロード・オブ・ザ・ソルト」で越える兵越峠(ひょーごし)も、そのときに初めて体験している。なんせもう11年もまえの話だけれど。水窪のあたりも同じ日に初めてその片鱗に触れた。それからしばらくして、北遠の観光パンフレットを作るような仕事をもらって、仕事仲間とともに、春野、龍山、天竜、佐久間、水窪という自治体を巡ったことも、今ではもう、少し懐かしい部類の時代に入る。また別の仕事では、相棒とともに車二台で水窪へ行く途中で離れ離れになり、当時は携帯なんてものがないため、先方と打ち合わせするはずの水窪町のどこかの建物がさっぱり分からなくなり、確か役場のそばだったかな、と山カンで飛び込んでみたら、果たしてそこだった。それでまあ救われたのだけれど、この相棒がなかなかの大人物で、打ち合わせに連れて行くべき私を見失った上に、帰りのガソリンが少々足りなかった。天竜市まであと少しというところでいよいよ怪しくなったので、トンネルの中などで停まったら最悪、と路肩の広いところに車を止めて、さて私の車でガソリンを買いに出たが、結局浜松インターまで往復しなければならなかった。
それからしばらくして、同じ相棒とともに、仕事の打ち上げで地元の方々から水窪町のさる宿に宴に招かれた。当然、飲めば運転しては帰れないところであるから、泊るつもりで飲んでいる。ところがおたがいの好意的な勘違いで、地元の方々が帰られたあとで、宿のおばちゃんがのたもうた。「お兄さんたちゃ今晩どこに泊るだね?」と。もちろん宿は空いていたので良い部屋をすぐ世話してくれたのだが。
まあそういう懐かしい笑い話もあるけれど、ともかく、北遠というのは、風景が豪放磊落で、どこかちょっと日本離れしたところがある。特に天竜川沿いにそれが顕著だ。谷間のスケールが大きく、さしわたし軽く100m超えるような天竜川の両側に、急角度の山の斜面が迫り、しかも驚くべきことにその山の中腹に昔からの集落が残っていたりする。まさに大回廊の空中集落という感じである。
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自転車のツーリストにはおそらく原型的な旅の心象風景というものがあるだろう。たとえば、かなり過去に、リアス式海岸の海辺を誰かが旅したことがあるとする。アップダウンの激しい、海岸伝いの道路の果てに姿を現す次の湾の遠景。漁村の傍らに佇む、あらかたその横木張りの壁が灰色にくすんだ小さな駅舎。千年変わらぬ潮風のなかに紛れ込んでいる、眩暈を起こすような異種の時間の刻印。
そうしたものを経験してから、ある時期まで、それらは旅の残像として、記憶として、サイクリストの魂のなかに残るだろう。まるで写真そのもののように。そうして、繰り返し繰り返し、その旅の余韻を送ってよこすだろう。
ところがある時期を越えると、体験の時点からそこまでに要する時間的経過はケースバイケースだろうが、記憶は一種の変容を帯びる。核心にあたる記憶はおそらくあまり変化がないだろうが、その周辺部は輪郭が曖昧となり、「あの日あのときあの場所で」という、時間と空間に置ける刻印が揺らぎ始める。同じところに何回か足を運んだ旅などを考えると、それはよく分かる。いつのまにか、二回目と三回目の旅の記憶がすり変わっていたりするものだ。
そのように歳月によってろ過された記憶は、しかし、その本質である生命感や、ある種の気分、人間側の気分ではなく、その記憶そのものの裡にあるかのような感興が弱められ、衰えるというわけではない。もちろんそういったタイプの記憶もあるが、むしろ逆にその本質が抽出され、蒸留され、結局純化されたものも少なくない。それは、年月を経たワインが果実としての葡萄の滋味から少し隔たったところにあることと似ているだろう。
あるいは、別の比喩もできるかもしれない。誰にとっても、どんな年齢にとっても、異性というのは神秘的な存在だが、時を経るに従って、その記憶は次第に変貌してゆく。波に叩かれて割れた硝子瓶の破片がやがては、水石というものに変わり、怪我をしかねなかった尖った切っ先が、指先のような丸みに変わるのと似ている。
そのように、誰彼の名前とともに残されていた記憶はやがてその性質を変え、半ば無意識のなかに沈み込み、誰彼の名前が剥がれ落ち、特定の誰かというのではなく、場合によってはいくつものパーソナリティの影の混合のようなかたちに変貌する。ソーダ水の瓶の硝子であろうと、薬品の瓶の硝子であろうと、水石は水石である。
そしてそうした異性像が、個人の枠を超えて、集合的無意識までに浸透してくると、ユングの言うような、アニムスとアニマになるのであろう。
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それにかなり近い意味で、私の自転車旅の原型に近いような空間のイメージがひとつある。イメージはそれだけでなく、ほかにもいろいろあるのだけれど、そのイメージは、サイクルツーリングを始めた頃の、最も古い記憶の層に連なっているので、私にとっては原型的、始原的といっても語弊はないだろう。
それは、大きな、深い谷間に沿う道で、辺りにはほとんど人家もなく、針葉樹や広葉樹の緑色が谷間の斜面を埋めている。道筋に時折現れる民家は、切妻の角度の開いたゆるやかな屋根で、傍らに薪にする木材が積み重ねられたりしている。道は古い起源がありそうだが、さりとて近代の土木工学の成果が見られないというわけではなく、斜面からの排水を促す設備や、斜面の崩壊を防ぐようなコンクリートの構造物がところどころにある。その構造物はけれどだいたい古びていて、コンクリートの組成のなかに礫があったり、表面が少し風化していたり、半ば風景のなかに埋もれつつある。コンクリートと呼ぶより、べトンと昔風に呼びたくなるような質感だ。
あるいは盛夏の灼け付くような日光と沈黙のもとに、あるいは冬を前に、木々の葉に絢爛たる彩色を施し、それらを路上で舞わせ、吹き寄せる透明な風のもとに、その道は飽くことなく谷筋を行く。
そのようなイメージが、私の自転車旅にはいつもどこかでつきまとっていた。当然その起源は、昔自分が体験した旅の記憶であろうし、もっとずっと以前に、学校へ上がる前に、静岡の山奥に住んでいた叔父のところを何度か訪ねたことの記憶に由来しているのかも知れない。もう15年も前に叔父は亡くなったが、小さな水力発電所の職員をしていた。もっと言えば、その叔父の戦前に没した父、つまりは私の祖父にあたる人が、当時の電源開発に携わり、隧道掘りの技術者として、中部地方を転々としていたこととも遠からず関わりがあるのかも知れぬ。
われわれのパーソナリティが、たとえとして樹のようなものだとしたら、その地上部分である幹や枝や鼻は目に見えるかたちでの人格であり、身体であり、意識であろうが、目に見えない地下部分は、無意識のようなものであろう。そして植物の根が滋養を吸い上げる土壌には、すでに倒れた前なる世代の木々も含まれる。だとすれば、比喩として、個人の無意識の層のどこかに、自分に連なる世代の魂の記憶が埋もれていたとしても、それほど突飛なことではあるまい。
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古い街道を旅していて、思うのは、やはり古人の苦労や足跡である。お地蔵さまや道祖神などの路傍の神は、理由があってそこにある。偶然ではない。ほんの百五十年ほど前まで、それは自分が四十四になったことを考えると、驚くべき「近過去」だが、人々のほとんどは、「塩の道」を徒歩で行くほかなかった。「塩の道」に限らず、幾多の街道筋も同じであっただろう。
そうした街道筋を観光的に訪れる人のほとんどは、動力のついた乗り物を利用する。それが悪いと言っているわけではなく、世の中はそう変化したのだ。ところが、アクセルを踏んで峠に辿りついても、さして大きな感動はない。身体を使って苦労して旅してきたわけではないから、それはある意味当然である。感動がないので、感謝もない。
峠のようなところに、神々が座しているのは、そこが風水的に特別な場所であるからということもあるだろうが、人々がまた自然に頭を垂れる場所だからでもあるだろう。そこまでは無事に来ることができたのだ。まずそれを感謝するのが、祈りの本質というものであろう。
われらが愛すべきサイクリストは、身体を使って旅をするので、感動は人一倍である。汗を流し、勾配と向かい合いながら、息を上げ、峠に辿り着く。同じ峠からの風景を見ても、車で来た人とはまったく違う眺めに見えるのだ。だから傍らに、車でそこを訪れた人たちが佇んでいたりすると、皆が皆そうではないとは思うが、私のようなどちらかと言えば不遜な人間は、どうだ俺はここまで自力で来たのだ、
どんなもんだ、お前らとは違うぞ、と口に出さないまでも心中ひそかに優越感にひたったりする。
ところがそこに、まさにサイクルツーリスト用にできた落とし穴がある。
お前は本当に自力でそこに来たと信じているのか、といつか誰かが問うだろう。
お前のその身体を、物質元素から言語に絶するような叡智のもとに構築し、奇蹟にも等しい恒常性を与え、そのような運動を可能にさせた者はお前自身なのか。お前が今朝食べた鶏卵を、お前自身が創造したのか。お前が自力で動かしていると称する、その金属と樹脂の双輪の車は、お前が今足で踏みつけにしている大地の中から、素材元素を持ち出したのではないのか。
おそらくは、中世に生きたような人々は、無意識的にせよ、その答えを知っていたのであろう。そもそも、問いの立て方が異なっていたかもしれない。私たち現代人は、木々がそれぞれ一本ずつ立っているように、自らの存在を孤立したもの、分断されたものと考える。
現代における古道の構造も、それと似て、開発や新道の開通、地形の変貌などによって、きれぎれに分断されていることが多い。だから、古道を辿る旅のありようも、失われた道のリンクを探し出し、結びつけ、かつてそこに存在していた旅の全体性を取戻そうという運動に満ちている。ところで、全体が分断され、単位に切り離され、ときに行き先を見失うのは、なにも古道ばかりではなくて、私たちの自己意識もそうではないのか。意識はますます、無意識を意識しないようになり、生と死はますます遠ざかり、身体と大地はまるで無関係なもののように位置づけられている。
そうした二十世紀的な迷路の入口には、物事を何でも両極で片付けようとする二元論がある。たいがいの人は、世界の構造を物質と精神という風に分けて考える。生の反対は死である、と考える。行為は善か悪か。相手は、敵か味方か。共同体は、家庭か社会か。身内か他人か。内なるものか外なるものか。
プラス要素かマイナス要素か。そのように考えていたら、行き着く果ては、幸せか不幸せか、つまり人生勝ち組か負け組みか、というきわめて極端なものの見方になるだろう。
本当にそうなのか? われわれサイクリストが、ありがたいバランス感覚も駆使し、身体もその情報系も総動員しながら、なんとかバランスをとって倒れずに進んでいけるように、もう少し別の考え方はできないのか?
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静岡県の水窪から、兵越峠を越え、長野県南信濃村に至ると、中部西南日本を分断する大きなボーダーである中央構造線の風水的印象は、またいっそう強くなるように思われる。あたたかい慈愛のようなオーラに満ちた和田の集落を抜け、遠山川に沿って、国道152号が北上する。
この谷間は、1994年に天龍村の平岡からしらびそ峠にのぼったとき以来で、今回10年ぶりにルート調査のために車で訪れてみると、あちこち道が良くなっていて、往時の雰囲気は少し様変わりしていたが、それでも、私が自転車旅に感ずる始原的な空間イメージ、大いなる谷間を行く道であることに変わりはなかった。
中央構造線を挟んで、地質は東と西で大きく分かれる。それは路頭にあらわれる地質のみでなく、衛星画像という巨視的なビジョンにも、長い谷間の形となって克明にその存在を顕にする。こうした二つの大地がせめぎあう場所は、風水的な活性度が高く、ちょっとほかと違う空気感に満ちているのだが、それはときには特長的な祭事に結びつくこともあるようだ。遠山郷の霜月祭りは、あまりにも有名である。
その遠山郷、中央構造線の奏でる大いなる谷間の歌は、大地そのものを響かせるようなある種の厳しさを伴った、しかしまた十月の終わりの清明さをも帯びた風だった。
遠山は二つの大地、青い地脈と赤い地脈がぶつかる場所、異質なものがせめぎ合う境域。異なる地殻の擦れ合いの領域。相容れないものがそこに対峙する、二元論的な空間であるのに、そこには、世界の多くの人々がたとえば生と死の二元論のなかで病んでゆくような気配はみじんもない。われわれは、北杜夫が「幽霊」の終わり近くで書いているように、誰であっても病むに等しいような存在だが、大地はそのような仕方で病むことはないのだろう。
二つの起源を持つ大地に挟まれた谷の間を、国道152号は続いていた。それは、物質文明のひとつの象徴である「道路」というより、道徳的なニュアンスを帯びた「道」というより、魂と精神にとって唯一可能な「径路」であるように思えてならなかった。